今回は、記事の紹介と部分反論をお届けします。
反論にはネガティブなイメージをありますが、議論を健全に進めるためには必要不可欠です。
海外の著者なので、伝わらないのが残念ではありますが。

取り上げる記事は、Erik Nanceさんが公開し、うきにんさんが日本に紹介したプレイスタイルについての考察です。
うきにんさんが記事を公開したのはつい最近ですが、既に読まれた方も多いのではないでしょうか。
http://ukinins.diarynote.jp/201412082131239875/


詳細は翻訳記事か原文を読んでもらうとして、著者の主張をざっくりまとめてみました。

1. プレイスタイルはデッキ選択に現れる
2. 対戦中は正しいプレイとミスプレイがあるのみで、その違いをプレイスタイルと表現するべきではない

例えば、攻めるのか守るのか。
そういった姿勢はデッキ選択で既に決まっているので、対戦中はデッキ・状況に合わせた正しい選択をしなければならない。
なので、デッキ選択にプレイスタイルは存在するが、対戦中にプレイスタイルは存在しない。
という主張だと読み取りました。

概ね私も賛同します。
好きなゲームの進め方があるのなら、それができるようなデッキを選択・構築するべきです。
また対戦中であれば、好みに関わらず正しい選択をするべきでしょう。

ただし、対戦中のプレイスタイルについては半分だけ反対します。
その主張は、プレイヤーが常にすべての選択肢を取ることができるという、いわば神の視点を前提にしています。※
しかしプレイヤーは人間なので、全てにおいてベストな選択はできません。
その選択の不完全さに、プレイスタイルと呼べるものが現れると考えます。

例えば。対戦中の難しい局面。
神の視点では、攻撃的でベストな選択肢Aと、守備的で少し劣る選択肢Bがあったとします。
もちろん、Aを選択するのが正解です。
しかし、防御的な思考をする人はAの選択肢を見逃し、Bを選択するかもしれません。
攻撃的な思考をする別の人は、Aの選択肢に気が付いてAを選択するでしょう。
その違いが、見た目にはプレイスタイルの違いとして現れます。

あるいは。
AB二つの選択肢が見えている別の人がいて、しかし二つの選択肢が同じくらい魅力的に見えていた場合。
その人が攻撃的な思考をする人ならAを選ぶでしょうし、そうでないならBを選ぶかもしれません。
これもまた、プレイスタイルの違いとして見えるでしょう。


これらはあくまでも、見た目に現れる現象に過ぎないかもしれません。
本当はただの正しいプレイであり、ミスプレイなのかもしれません。
しかし現象として存在したならば、対戦中にもプレイスタイルは「ある」と考えるべきではないでしょうか。


私の主張は以上です。
実は私の主張とErikさんの主張は本質では同じで、Erikさんが「エラーは正さなければならない」であるのに対して、私は「エラーは根絶できない」と見方の違いでしかなかったりします。
なので私の記事は本来、プレイスタイル(エラー)とどう付き合っていくかに発展していくべきなのかもしれません。大変なので割愛しますが。

Erikさんの記事には翻訳された部分の続きがあって、正確なプレイをするための方法へ展開するそうです。(有料記事)
時間制限があるゲームで完璧なプレイはあり得ないと思うので、どんなアプローチで挑むのか、興味を惹かれますね。


※神の視点と表現しましたが、他にも色々と呼び方はありますね。マンガのヒカルの碁では神の一手という言葉がありますし、経済学的にいうなら合理的経済人といったところでしょうか。

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